「終わらない」
背後から聞こえてきた声に、わたしは思わず振り返って声をかけた。
「終わらないなんて呟いたところで、課題は片付かない──って、ついさっき、わたしに向かって言ったのは誰だっけ」
「だって、ホントに終わらないんだもん」
そう言って、髪を頭の上でボサボサに束ねたルームメイトが、椅子ごとくりりとわたしの方へ向きなおった。いつもはきれいに波打つウェーブが、今は見る影もない。
「大学に入ったらさぁ、遊べるとか嘘じゃん。入学してからずっと、受験の時の100倍は勉強してるんだけど!」
「そーねー。それでも終わんないよねぇ」
山積みの課題に埋もれたまま、わたしはため息をつく。
震災の影響でヒビの入った壁、カーテンで仕切られただけの古びた寮。髪を振り乱し、眠れない日々を重ねながらなんとか仕上げる課題の山。ご飯を食べそびれてビスコで凌ぐなんて、しょっちゅうだった。
なんだかなあと、ちゃんちゃんこを羽織ったルームメイトと自分の姿── 一応断っておくが、私たちは世に言う女子大生というやつだ──を見比べてため息をつく。
大学生活って、もっと華やかで輝かしいものなんじゃないんだっけ。
今の自分の姿と、世の中がわたし達に重ねるであろうイメージとの乖離に、時々表現のしようもない焦燥感が湧き上がる。
もっと、幸せでなければ。もっと華やかでなければ。──今が一番、幸せで華やかな時なんだから。
思わず頭を振って、開きっぱなしの3冊の本に向き直る。くそくらえ。今が一番輝かしい時だなんて、人一倍不幸な顔をしておきながら努力もしない、「好き」を見失った「大人」になんて言われたくなかった。
やや不機嫌になりながら、再び課題の山に潜っていく。
目の前のことに集中しなければ、という意思に反して、徐々に、自分が英語を読んでいるのか日本語を読んでいるのかすら、分からなくなっていく。
じりじりとした焦りと黒い思考に、視界が黒く濁ってくる気がした。寝不足が原因なのだとどこかでわかっていながらも、自分の思考に飲み込まれそうになる。
若さと時間をすり減らしながら、わたしはなんのために努力をしているんだろう──急激にせり上がる虚しさ飲み込まれそうになる。ああ、よくない思考だこれ。でも、一体わたしはいつまで、このネガティブ思考と戦わなきゃいけないんだろう。
無性に全てを投げ出したくなったその瞬間、ふと、何かがわたしの耳に引っかかった。同時に、わたしに向かってキラキラした目を向ける、女性の姿が脳裏に蘇る。
ピアノだ。
ピアノの音がする。
「......ピアノ」
わたしのつぶやきに、ルームメイトが顔を上げた。彼女に向かって、わたしは言葉を重ねる。
「誰かがピアノ、弾いてる」
「余裕で羨ましい──って言いたいところだけど、ちょっとわかるかも。追い詰められた時ほど、無性に頭を空っぽにしたくなるんだよね」
「ああ、そうだね。──わかる」
建物はボロくて古いのに、この寮にはなぜかグランドピアノが設置されていた。寮費の使い道に困って買ったのだそうだが、個人的には悪くない選択だと思っていた。
「わたしも、3日徹夜してるのに課題が終わらない時とかに、時々ピアノ弾いてるよ」
「......それはさすがにどMでしょ」
ルームメイトの呆れ声に、つい笑いが漏れた。
「これなんの曲だっけ。ジブリの?」
「"アシタカせっ記" わたしもこの間、練習してた」
「へえ」
「この曲を弾いていた時に、声をかけられたんだ。たぶん、弾いているのはその子だと思う」
「ほうほう。人に影響を与えるほどの腕前とは、なかなかやりますな」
「まさか。相手がちょっと変わった子だってだけだよ」
初めて出会った時の様子を思い出し、わたしは笑みを深める。
いてもたってもいられない、と言った様子でピアノ部屋へ飛び込んできたひとりの寮生。驚いて口を開けるわたしを、潤んだ、キラキラした目でじっと見る。
──ありがとう。わたし、嬉しくて。ピアノが好きだから、わたし嬉しくて
──ねえ、素敵な音を、本当にありがとう......
「わたしの100倍上手なくせに、お礼なんて言っちゃってさ」
「え?」
「いや、なんでもない」
そう言って、わたしはルームメイトに笑いかけた。
大人は、これを単純だと嗤うだろうか。
古い寮、夜中にルームメイトと愚痴を言い合いながら、終わりの見えない課題に取り組む今、この瞬間が突然、たまらなく愛おしいものに思えた。
もしかしたら、この愛おしさを、大人は「輝かしさ」と呼ぶのかもしれない。そんなことを思う。
何年も訓練を重ねたのだろう洗練されたピアノの音が、ささくれていた神経をなだめていく。
不恰好なわたしの音が、あの時、彼女の何かに触れたのだろう。ちょうどぴったりなタイミングで。まさに今、彼女の音がわたしの後ろ向きな思考を振り払ってくれたように。
「仕方ない。もうちょっと踏ん張るか」
机に向き直り、読みかけの英文にそっと指を滑らせる。
先なんて見えない。自分の生活が華やかだなんて思えない。
それでも、あのピアノの彼女の名前を聞こうという、その思いだけで少し、未来に光が灯った気がした。